『茄子 スーツケースの渡り鳥』(2007)の話
高坂監督というとついこのあいだ最新作『若おかみは小学生!』が公開されたばかりですが、「両親の死」というシリアスなテーマを、鈍重にならず爽やかな希望感をもって描いた、素晴らしい作品でした。紋切り型な表現ですけど、本当にそうなんだからしょうがない。これまでもジブリの作画監督として大活躍してきましたが、以降は監督業に重点を置くとのことで、これからが非常に楽しみです。
でこっからが本題。高坂希太郎が総監督として手がけた作品は現状たった三作しかありません。まあアニメ好きな方、自転車乗りの方にとってはすでに知ってる方も多いかとは思いますが、『若おかみは小学生!』で高坂監督を初めて知った人や未見の人に是非一度観てほしいのが、同監督の前作『茄子 スーツケースの渡り鳥』です。Prime VideoやらNetflixやら大体の定額制動画配信サービスで課金なしで観れるようですし、その前の『茄子 アンダルシアの夏』と合わせても普通の映画1本分と大差ない長さなので、気軽に観れます。
作品の基本解説はWikipediaをどうぞ。
高坂監督についてはこちらの記事がわかりやすいです。
話題沸騰『若おかみは小学生!』高坂希太郎監督とは?ジブリの作画を支えた大ベテラン | FILMAGA(フィルマガ)
聖地巡礼された方の記事はこちら。僕もいつか絶対行きたい。作品自体のレビューも面白いです。
しおいんですけど : ロードバイクで「スーツケースの渡り鳥」巡礼をする
ここから先本編についてネタバレ・引用してますので、一応気になる方はご注意ください。
声優が豪華
二作の主人公ペペ・ベネンヘリを演じるのは、監督が大ファンという「水曜どうでしょう」の大泉洋。アニメの役に声優を起用するか実写俳優を起用するか云々の問題が時々俎上に載せられることがありますが、まあ演技が良いんなら誰が演じようと関係ないですね。もちろん今シリーズにおける大泉洋の演技は文句の付け所がありません。お調子者でありつつ『アンダルシアの夏』ではドロドロの人間関係に悩む1人の男としてのいい味も出しています。それから今回のもう一人の主人公であるチョッチを演じるのは、天下の山寺宏一。『攻殻機動隊』のトグサに『新世紀エヴァンゲリオン』加持リョウジ、『ポケットモンスター』映画シリーズの常連ゲスト、最近では新世代『ルパン三世』の銭形警部まで、まあアニメファンでなくとも一度はその声を聞いたことをあるであろう超有名人。今作もあの渋いボイスをたっぷり堪能できます。
それから特にジブリジブリしてる(?)ひかるちゃん役の坂本真綾。元気でハツラツなひかるちゃんのキャラクターをばっちり演じてます。「ギャー!!」がハイライト。パオパオのぴったりしたユニフォーム姿に、お寺での割烹着と、おっさんだらけの汗臭い作品の中で紅一点の華やぎを担います。
また、前作では所属関係で実現できなかったという「水曜どうでしょう」スタッフの共演。僕は見たことないんですけど、ファンならニヤリとくるもんでしょうね。あとこれは豪華というよりテクニック的な側面もありますけど、作中のレースの実況解説が本職の方を採用してるのも凝ってます。そして本作のキーパーソン・マルコを演じる大塚明夫。『ゆるキャン△』のナレーションが記憶に新しい(「ン薪」「ンまつぼっくりぃ」)。サウナでの山ちゃんとの掛け合いがリアルです。
音楽の使い方がいい(一箇所除く)
先にその一箇所を指摘しときますが、来日直後パオパオのメンバーが街中を走るシーンで流れる、ハイテンションなシンセポップだけは最高にダサいです。全体に軽やかなアコースティック音楽でまとまってる中で、なんであそこまでダサい要素を凝縮した音楽を採用したのだろうか。ギター、ドラム、シンセのどれをとっても擁護できないダサさなんですよね(大事なことなので3回)。
さてそこんところに目をつぶると、オープニングの音作りからしてもう良い感じです。道路の破線に自転車の走行音、そして「はあ、はあ、はあ」という息継ぎがオーバーラップしたかと思うと、マルコの安らかな横顔に白布を被せる映像が加わります。タイトルを経て、「Venga!Venga!*1」の掛け声と共にぺぺの姿が映し出されると、あの超絶かっこいいメインテーマがかかります。
茄子スーツケースの渡り鳥 サントラ 「Venga pepe 2007 ~opening~ 」 - ニコニコ動画
メインテーマ単体で十分かっこいいんですが、前作から続けてみる人にとっては「あー茄子だなあ」とほっこりする作用(?)もあります。それから同じ曲でも、作品間だけでなくシーンごとにアレンジや編曲が違っていて、そこも凝ってるんだなあと。音楽担当の本多俊之(本多俊之 - Wikipedia)は『マルサの女』のテーマを作曲したことで有名な方みたいですが、吹奏楽経験者にとってはサックスプレイヤーとして名を知られているかも。
作品前半の前日準備で流れる軽やかなストリングスも素敵。その上でストーリーの盛り上がりとぴったりリンクして最高の盛り上がりを見せるのが、クライマックスのチョッチの奮起と、パオパオチームの逆転劇です。
<才能>へのまなざし
黒田硫黄の原作漫画は長さにしてたった24ページの短編ですが、大筋のストーリーやキャラクターデザインに大差はありません。そんな中で最も大きな追加要素として、映画オリジナルキャラクターのマルコの自殺というイベントが挙げられます。
マルコの登場シーンは冒頭含めても2回と決して多くありません。が大塚明夫の低音ボイスと相まって、彼に向けられるチョッチやぺぺの言葉が存在感を引き立てます。オープニングから死が示されるというのは、それこそ『若おかみは小学生!』と同じテーマでもありますね。
チョッチとマルコの関係は、葬儀を抜け出したチョッチの回想の中で象徴的に表現されます。サウナの我慢比べは、軽やかなクラリネットと合わさって、まさに「兄弟」といえるような、コミカルで可愛げのある光景です。しかし、這々の体で雪原に身体を投げ出し、一息ついて星空を見上げる2人は(ここの「熱々の身体が雪の中に沈んでいく」というやつ、いっぺんやってみたいもんです)一転して真面目な顔を見せます。
マルコ:チョッチ、こんな苦しさを、レースで味わったことはあるか?
チョッチ:うーん…一、二回はあるよ。
マルコ:そうか。
チョッチ:マルコは?
マルコ:俺か?…俺ァいつもだ。
チョッチはこの答えに、ハッと身を上げ、そしてまた雪に身を委ねます。たった数分のこのシークエンスが、作品内現在に対してどれほど過去のことなのかは明示されませんが、杭のように心に刺さったやり取りだったことが、後に続くチョッチのリアクションから察せられます。そして寝返りを打つチョッチを、(転がり落ちた自分のベッドの脇で)黙って背にするぺぺ。
チョッチはマルコのことをどう捉えていて、それが彼の死をきっかけにどのように変わったのか。これが肝です。ヒントの一つとなるのは、このサウナの回想の直前、ぺぺとチョッチのマルコについての会話です。
ぺぺ:まあいいや、亡骸に別れを告げようが告げまいが、マルコ・ロンダニーニは俺のヒーローに変わりはない!
チョッチ:自殺でもか?
ぺぺ:…当たり前だろ。
チョッチ:人は、神様にはなれないんだよな。所詮、弱い存在だ…
ぺぺ:でも、強かったよな。
チョッチ:…
こちらの感想記事(茄子 アンダルシアの夏 と 茄子 スーツケースの渡り鳥を観ました。 - だらだらなるままに。)でも触れられていますが、このやり取りが2人のスタンスの違いを端的に表しています。
マッサージを受けた後、橋の上で自分の今後についてぺぺに語るチョッチ*2。
ぺぺ:ポイントじゃねえ。俺ァ勝つために走ってるんだ。勝つために生きてる。
チョッチ:(ぺぺの胸ぐらに掴みかかりながら)ぺぺ、よく考えろ!生きるために金がいるんであって、誰も金のために生きてはねえだろ!
ぺぺ:な、なんの話だ?
チョッチ:俺は人生のために生きる!
ぺぺ:…?
チョッチ:…って思ったさ。じゃあな。
このやり取り自体もさることながら、続くシーンがレースの中盤から唐突に始まるという構成もすごくクールです。普通なら二人のモノローグとか回想とかに続けてもよさそうなところ、観ているこっちに考えを促しながら、否応無しにレースに投げ込んでいく。
さて、ぺぺが戸惑っているように、二人の生き方は、深い部分では変わりません。ぺぺは今を、チョッチは未来もしくは過去、つまり今ではないどこかを見ている、という点で、視野の距離感が違うわけです。この距離感は、どっちが優れているとか倫理的に云々とかは関係ありません。そしてどういう見方をしようと、「生きる」という根本の前提は共有しているわけです。
だからといって二人のやりとりは無意味かというとそういうことでもない。
ザンコーニのリタイア
ザンコーニがどういうタイミングで「幻の優勝」を決意したのか、またどういった意図なのかという内面については一切描写されません。行動だけ見れば滑稽とすら言えるかもしれません。一周早く終えるつもりで走るならあの驚異的な追い上げだって納得ですし、なんならもっと格下の平均的な選手にもできることでしょう。
そもそもザンコーニの内面が見えないのは、映画の鑑賞者である僕らだけではありません。パオパオのインタビューから一気に視線をかっさらう登場シーンや、レース序盤では若いレーサーがザンコーニの姿に顔を緩ませている描写、そしてぺぺたちの会話の端々に表れる評価。同じ業界にいながら、多くの選手たちにとって(そしてレースを見つめる観客たちにとってはなおさら)ザンコーニは伝説的な存在として距離を置かれているわけです。
ですが彼にも衰えはあります。「今年に限っちゃそんな成績変わんねえぞ」「ザンコーニなんて過去の男だ!」というぺぺ、また「全盛期を彷彿とさせる」と評する解説、そうした台詞の端々でそのことが示されます。それは恐らくザンコーニ自身が最もよく理解していることでしょう。そして彼もまたマルコの葬式に出席し、その死に直面しています。年齢的にもチョッチ以上にマルコの心理に対して敏感にならざるを得ないでしょう。彼もまた「神様にはなれない」ということについて、意識的に考えなければならなかった。
そうした自分自身の姿と、周囲に見つめられる視線との間には、明らかにギャップがあります。未だに姿を見せるだけでサインの嵐、「伝説的レーサー」という格。一方でチームメイトのギルモアには「朴念仁」「何を考えているか分からない」と評される始末。共にする時間が比較的多いギルモアには、もしかするとマルコの衰えの片鱗が見えていて、その存在を疎ましいと感じているのかもしれません。
さて、ここで重ねたザンコーニについての考察は、やっぱり「妄想」とそう大差ありません。なにせ直接的な描写がないから、コンテクストから想像してこっちで作り上げるしかない。原作に至っては「マルコの死」というイベントがそもそも存在しないため、よりリタイアの意図の見えなさが際立ちます*3。
しかし繰り返しになりますが、このザンコーニの内面の「見えなさ」は、僕ら鑑賞者だけでなく、レースの観客、そしてぺぺたちレーサーとも共有するものです。最後の新聞記事に至るまで、徹底して解決されないまま映画は終わります。
ここでもっと重要なのは、ザンコーニの意図そのものではなく、それを見つめ、解釈するチョッチのまなざしです。
ザンコーニがレースの後どうなったのかは分かりません(新聞の見出しでも判断がつきません)が、レースに出場し続けようと引退しようと、これが彼個人にとっての、一つの節目になったのは確かでしょう。そしてさらにマルコの自殺と結びつけるなら、2人は自転車乗りとしての人生を、形は違えど自分の手で絶ったという点で共通します。「超びびった」「ふざけんな!」(ギルモア)というセリフに表されるように、見方によっては茶番とも言える「幻の優勝」によって、マルコと、自分自身へのレクイエムを演出したのでしょう。
ここで、視点を主人公であるチョッチに戻します。彼の行動を見つめるという視線のベクトルは、ここで映画の鑑賞者と一致します。
ぺぺ:「今回の勝利はマルコ・ロンダニーニに捧ぐ」。表彰台でそう言うのかと思ったがな。
チョッチ:そうだな。…
チョッチはこれ以上言葉を続けませんが、恐らく彼自身はマルコの死と、自身の将来に一定の折り合いをつけていることでしょう。寺の本尊をじっと見つめる眼差しが、その意思を代弁します。そして彼の死を悼む役割を担ったのが、ザンコーニの「幻の優勝」だったわけです。
<反復>のモチーフ
◦ ぺぺが走る坂道。一度目には豪雨と霧の中、「何が起こるか分からないから、人生面白いのよ!」と言い放った直後に、水流にタイヤを掬われ転倒(「面白くねええ!!」)。二度目ではその失敗を踏まえてブレーキをかけたところにザンコーニに悠々と追い抜かれ、そして三度目、今度こそチョッチを先導し軽やかに通過していく。
◦ ひかるがボトルを渡す。序盤では「おう、水だ!」と嬉々としてボトルを受け取っていたチョッチが、中盤ではその余裕を失うくらいに消耗している。
◦ 「タイヤで水を飛ばす」という妨害。序盤ではぺぺがギルモアに対して、中盤ではギルモアがチョッチに対して行う。前者ではまさにアニメらしくコミカルに描かれ(水をブーっと口から吹き出す)、口調はともかく喧嘩ですませているのに対して、後者はよりシリアスな様相で、レースがいよいよ煮詰まってきていることが伝わる。
一通り気がついた「反復」の描写を挙げました。そしてこの「反復」に意識を向けたとき、それが作品の描き方だけに留まらないことにも気付かされます。題材であるレースが同じコースを何度も回ること、レーサーという職業が数えきれないレースを延々とめぐり続けること。そうして行き着くのが「生きること」というさらに大きな枠組みです。
今回は優勝という華々しい結果を残せたパオパオビールですが、当然彼らの自転車乗りとしての人生はまだまだ続きます。ぺぺはひかるちゃんといい感じになって日本に永住するかもしれないし、そりが合わなくてすぐ別れるかもしれない。今回はケリをつけられたチョッチも、また新たな悩みに苛まれ、結局父親の後を継ぐことになるかもしれない。はたまた充一くんはぺぺたちの背中を追って、いよいよプロレーサーデビューするかもしれない。
先に引用した葬式直後シーンでは、ぺぺの運転する車は、競技用らしき自転車に乗った親子を追い抜いていきます。またレース前日、コースの下見をするパオパオの面々は、ひいこら言いながら坂道を登る充一くんを颯爽と追い抜いていきます。マルコ、ザンコーニら“上”の世代の背中を追うぺぺ、チョッチたちもまた、充一くんたちにとって“上”の存在だということ。これもまた<反復>です。
作品が描くスクリーン、その外側にも広大な世界が広がっているんだろうな、という想像を膨らませられる。いやあ本当にすごいことだなあと思います(唐突な燃料切れ
終わりに
僕が作品を知ったのはソフト発売からずっと後のことでしたが、最初はなんか面白いなーぐらいだったのが、プライムビデオで繰り返し観るのが手軽になってから、ズブズブとはまりこんでいったという感じです。だけどあんまり詳しくレビューしてる記事が多くない。ならば自分で書けばいいやと奮起した次第です。とはいえまだまだ書き足りない部分もあるんで、ちょくちょく追記していこうかと思います。まあぶっちゃけこちゃこちゃ小難しく頭をひねらなくても、声優の演技、絵の安心感、一箇所を除く音楽の爽快感(くどい)、それだけで何周でも観れる名作です。エンジンかかったら『アンダルシアの夏』についても書きたい。
同じように思っている方がこの記事に辿り着き、共感するでも否定するでもなんでもいいので、より深い鑑賞や考察の一助になれたなら幸いです。あるいはこれをきっかけに一人でも『茄子』を観る人が増えてくれたなら、書いた甲斐があったというもんです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。